【2019年ダボス会議:必読】全文翻訳:2019年世界経済フォーラム・ジョージ・ソロス氏講演

私の最初の取り組みは、南アフリカのアパルトヘイト体制を弱体化させることでした。それから私はソビエトの体制を開放することに関心を向けました。共産主義の支配下にあったハンガリー科学アカデミーと合弁会社を設立しましたが、その代表者たちはひそかに私の取り組みに共感してくれました。
この取り決めは私の想像をはるかに超えて成功しました。私は「政治的な慈善活動」に夢中になりました。それは1984年のことでした。

その後の数年間、私はハンガリーや他の共産主義国での成功を再現しようとしました。私はソ連そのものを含むソ連帝国ではかなりうまくいきましたが、中国では話が違いました。

中国での最初の試みはかなり有望に見えました。共産主義世界で高い評価を受けているハンガリーの経済学者と、ハンガリーから学びたいという中国の新興シンクタンクのチームと交流しました。

最初の成功を踏まえて、私は中国でハンガリーのモデルを再現することをシンクタンクのリーダーであるチェン・イズィ(Chen Yizi,)氏に提案しました。チェン氏は、趙紫陽首相と改革派の政策書記長・鮑トウ氏の支持を得ました。

1986年10月には、中国では類を見ない 「中国ファンド」 という合弁会社が発足しました。書類上は完全な自治権を持っていました。

鮑トウは、その熱心な推進派でした。しかし、急進的な改革に反対する多数の人々が彼を攻撃するために団結しました。彼らは私がCIAの諜報員だと主張し、内部の治安当局に調査を依頼しました。自らの身を守るため、趙紫陽はチェン・イズィに代わって外部治安警察の幹部に就任しました。この2つの組織は同格であり、互いの問題に干渉することはできませんでした。

私がこの変更を承認したのは、自身の研究所のメンバーにあまりにも多くの助成金を与えているチェン・イズィに憤慨し、舞台裏での政治的内紛を知らなかったからです。しかし、この中国基金に応募した人たちは、同基金が政治警察の管理下にあることにすぐに気付き、その場を離れ始めました。誰も私にその理由を説明する勇気がありませんでした。

最終的に、ニューヨークにいる私のところに中国人の助成対象者がやってきて、かなりの危険を冒して私に話してくれました。その後すぐに趙紫陽は失脚し、私はそれを口実に財団を閉鎖しました。これは1989年の天安門事件直前のことで、同財団関係者の記録には「黒点」が残りました。彼らは自分の名前の黒点を消去するために長い時間がかかりました。最終的には上手くいきましたが。

振り返ってみると、私が中国の人々にとって適合しないやり方で運営されている財団を設立しようとして失敗したことは明らかです。当時、助成金を出すことは、寄付者と受取人の間に相互の義務感を生み出し、双方に永遠の忠誠を尽くすものでした。

過去についてはそれくらいにして、 さて、昨年起きた出来事に目を向けてみましょう。そのうちのいくつかは私を驚かせました。

私が最初に中国に行き始めた時には、権力者の地位にありながら、開かれた社会の原則を熱心に信じている人たちにたくさん会いました。彼らは若い頃、再教育を受けるために田舎に強制送還され、大抵ハンガリー時代の私よりもはるかに困難に苦しんでいました。しかし、彼らは生き残りました。 私たちには共通点がたくさんありました。私たちはみんな独裁政権の被害者でした。

彼らは開かれた社会に対するカール・ポッパーの考えを知りたがっていました。彼らはその概念に非常に魅力を感じていましたが、彼らの解釈は私のものとは少し違っていました。彼らは儒教的な慣習をよく知っていましたが、中国には投票する慣習がありませんでした。彼らの考え方は階層的なものであり、高い地位を尊重していました。一方、私はもっと平等主義で、誰もが投票してほしいと思っていました。

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