【命のビザ:オピニオン】杉原千畝広場記念式典:ニューヨークタイムスで米国で最も影響力のあるとしたラビの手記

杉原千畝氏、ご存知の方も多いと思います。
第二次世界大戦中のヨーロッパでヒトラーに追われた約六千人のユダヤ人避難民の命を救った功績から「諸国民のなかの正義の人」との称号を日本人ではただ一人、イスラエル政府から受けた人物です。

しかし、当時、この本省の命令に背きビザを発給するという決断し行動するということで千畝は戦後職を追われることになり、その後長い間、その功績が日本人の間で語られることはありませんでした。

そんな千畝氏をイスラエル政府が探し当てたのは1968年。その後、杉原家と外務省の仲が改善され、外交官としての名誉を回復したのは、実に44年後の1991年だそうです。
そして2017年、2018年度の小学校での道徳教科化に伴い初めて作られた道徳教科書の検定合格の8社中4社が、第2次大戦中に「命のビザ」を採用しました。千畝の行動が、教科化に合わせて文部科学省が掲げた「考え、議論する道徳」の教材として扱われています。

このほど千畝の母校・愛知県立瑞陵高校(旧県立第五中)に表彰施設「杉原千畝広場 センポ・スギハラ・メモリアル」が完成、等身大の銅像がお披露目となりました。
これに伴って、ニューヨークタイムズが2019年10月15日付の「オピニオン」欄で掲げた記事を原著者の許可の上、杉原氏に敬意を表して、ご紹介します。

Post by Mariko Kabashima、Eshet Chayil  2018/10/23  16:07 update 16:28

【The New York Times by By David Wolpe 2018/10/15 】

「窮鳥懐に入れば、猟師も殺さず」‐。杉原千畝が両親から受け継いだ武士道精神。当時の本省に背き、自らのキャリアを棒に振ってまでして、何千人にもの人命を救った、英智あふれる果敢なニッポン男児・杉原千畝を支えたのは、まさに、この武士道精神であった。

千畝の功績について語るため、去る金曜日(10月12日)、日本政府の招待で私は名古屋に降り立った。

驚異の行動を起こした杉原千畝に再び疑問が沸き上がった。一体どのような倫理観が根底にあったのかーー。周りが見捨てた者たち(ユダヤ系避難民)を救うと決断せしめた行動原理とは何なのかーー、と。

第二次世界大戦中のホロコーストでユダヤ人を救済した多くの人々は、幼い頃から独自性に富んでいたと言われる。杉原もそうだった。右に倣えの日本社会にあって型破りな存在であった。

千畝の父は、学業優秀な息子に医師になるよう勧めた。語学を専攻して、世界を見聞する文学の世界に入りたいと願っていた千畝は、無理やり受けさせられた医大試験の際、白紙回答をしている。芯の強さは外務省入省後も際立っていた。満州外交部の北満特派員だった1934年、日本政府の中国人に対する扱いに抗議して突如辞任している。

心理学者のフィリップ・ジムバルド(Phillip Zimbardo)は、英雄や女傑に見られる第二の特徴をこう分析している。
「ある一種の人間を悪役に仕立ててしまう憎悪感。これに酷似した感情や状況はまた同時に、別な種類の人間を英雄的行動に駆り立てる」と。世界中が見捨てたユダヤ人の窮状を、杉原は無視することができなかった。

1939年に領事代理としてリトアニアに赴任し、領事館を任された杉原。赴任後すぐに、ドイツ占領下のポーランドから逃がれてきたユダヤ系避難民に直面する。 三度に渡り、避難民へのビザ発給許可を求め、在外公館に打診したところ、在外公館の田中K氏発の返電は明解だった。「問い合わせのあった通過ビザについて。行先国の入国許可証と日本国出立の保証がない者には決して通過ビザを発給するな。例外を認めるな。さらなる問合せは不要なり」。

これを受け、妻・幸子や子供たちと話し合った千畝。自らのキャリアにとって致命傷となることは必至であったにもかかわらず、外務省訓令に背いてビザを発給することを決めるのである。

心理学者のジムバルド氏は、(政府指令に背くという)異なった行動を可能にする心理を「英雄的な想像力」と呼ぶ。弱者や苦境にある者を助け、保護するという、同じ人間としての責務を貫くことに焦点を当てる心理だ。素晴らしく秀でた能力だが、これを持ち合わせる者は過小評価していることが多いという。

1977年に取材に応じた杉原は、自身がとった行動は当然のことだったと振り返る。「私たちが住んでいた領事館の窓際には、連日何千人に上る避難民が押し寄せていた」「他に道などあるはずもなかった」ーー。

10月12日の金曜日。杉原千畝の母校に表彰施設が完成。ユダヤ人の避難民三人家族にビザを手渡す千畝の銅像除幕式で、私は演説した。

式典後、1200人の学生の前で、千畝氏の子供として唯一存命する4男の伸生氏と話すこともできた。父の功績を称えるため、在住するベルギーから訪日した伸生氏は、千畝が「とても簡素な人間だった」と語り、「親切で、読書好き、ガーデニングに励み、ほぼ全ての子供たちを愛していた」と振り返った。千畝氏が自らの行動を、特に注目するに値しないとしていた点にも言及した。

世界中の殆どの人にとって、ユダヤ系避難民の姿は、憐れな外国人の集団としか映らなかった。ところが千畝は違っていた。人間ひとりひとりの尊い命と映ったのだ。「実に手書きの多い仕事だった」という千畝。手間のかかる単純な手作業が人の命を救うと突き動かされた。昼夜を舎かずビザを書き続け、通常なら一月間に相当する数のビザを一日で書き上げた。幸子夫人は、あまりに根を詰めたビザ書きで痛む千畝の手を就寝前にマッサージしたという。

日本政府がついにリトアニア領事館を閉鎖した1940年9月、千畝はそれでも筆記具を離さず、ビザを書き続けた。領事館閉鎖で本来なら法的効力を欠くビザであったが、それでも領事代理という千畝の名前と領事館印が効果を発揮した。

日本を通って他の目的地に渡航するための通過ビザの発給総数は少なくとも6000件。多くの場合、家族全員が1つのビザで渡航したことを考えると、実に推定4万人を超える人々が今なお生き存えるのは、この1人の果敢な男性のとった行動のお陰と言える。

領事館閉鎖に伴い退去する際、列車の中でもビザを書き続けた千畝。避難民が偽造ビザを自分たちで作れるよう領事館印を手渡した。そして、出発した列車の窓から書き終えたばかりのビザを、プラットホームに残る避難民に向かって、文字通り、投げて渡した。

千畝は戦後、辞任勧告を受け、外務省を後にする。当時7才だった三男も白血病で失った。(覚悟していたこととはいえ、生活は困窮し)職を転々するなど憂き目にあう。千畝の功績が知られるようになったのは、1968年以降のこと。「命のビザ」で救われたポーランドのユダヤ系避難民だったイェホシュア・ニシュリ(Yehoshua Nishri。当時10代後半) が参事官として駐日イスラエル大使館に赴任、千畝を探しあててからだ。

外交官として働いた戦時中の出来事について沈黙を守っていた千畝。親しい者でさえ、彼の英雄的行為について全く知らされていなかった。

1986年に死去した杉原。その9年前の取材ではこう語っている。「あれは人間としての良心の問題だったと、外務省には伝えました。この事で職を追われても後悔はしません。もしも、他の人が私と同じ立場に立ったなら、きっと彼らも同じことをするでしょう」と。

もちろん、他にも多くが千畝と同じ立場にあった。しかし、千畝のような行動にでた者は少ないのが事実だ。倫理観が勇気を駆り立てる事が稀なら、その倫理観を行動で表すことはもっと稀なのである。それは、他人への思い遣りや、意志の強さ、深い信念といった複合的な要因が神秘的かつ強力に融合してこそ可能となるのだ。

我々が今日直面する難民問題に対し、千畝だったらどのように対応しただろうか?また、入国の門戸を閉ざそうとする各国首脳に対し、杉原はどう言っただろうか?もちろん非常に難解な問題ゆえ、単純な答えがないのは承知の上だ。しかし、我々は、この一人の男の生き様を忘れるわけにはいかない。過酷な勤務や政治的孤立、果てしない要望の嵐のなかにあっても、窓の外の混乱から目を背けなかったその姿。千畝は私たち人間に共通する責務を全うした。異邦の民が放つ聴きなれぬ外国語であっても、人類に共通する普遍的な救いを求める声を聞いたのだ。

金曜日の除幕式で私が学生に語りたかったこと。それは、彼らが生涯の中でいつかは、救済の門戸を閉ざすのか、あるいは、心を開くかの二者選択を迫られる時がくる。その時にどうするか?難を逃れるため、懐に飛び込んできた窮鳥を、追い払わず庇護した、この偉大な人物と同じ高校で彼らが学んだことを忘れないで欲しいーーということである。

執筆者:デビッド・ウォープ(David Wolpe )
「シナイ・テンプル」のラビ。著書に「ダビデ王、割れる心」などがある。エルサレムポストは、世界でも最も影響力のあるユダヤ人50人の中の一人としている。ニューヨークウィーク誌は、米国で最も影響力のあるラビとしている。

(海外ニュース翻訳情報局 : 序文:樺島万里子、えせとかいる 翻訳 えせとかいる)

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