【インタビュー】バノンは、カトリック司祭がKKKによってリンチされた南部で「非常に敬虔なカトリックの家庭」で育ったことを話した。

先日、スティーブ・バノン氏が来日しました。主流メディアでは、極右のトランプ大統領の首席戦略官としてフィクサーのような扱いをしていました。当サイトでは、スティーブ・バノン氏について何度かその素顔を発信しています。今回は、ブライトバートからバノン氏が、彼の根底にあるものについてのインタビューの記事を紹介します。
Post 2017/11/21  12:14 update 13:55

Breitbart by THOMAS D. WILLIAMS, PH.D.   2017/11/16】

「バノン:Always the Rebel(常に反逆者)」の著者キース・コフラーとの最近のインタビューで、スティーブ・バノンは、1950年代、1960年代に “非常に敬虔なカトリックの家庭”で育ったことについて語った。

バノンは、現在、ブライトバートニュースの会長であり、トランプ大統領の前首席戦略であり前大統領上級顧問であった。幼年時代に遡り、彼の初期の年に最も影響を与えたことについて質問した。

バノンは、バージニア州リッチモンドにある労働者階級で中産階級のアイルランドカトリックの家庭で育った。5人の子供を育てた専業主婦の母親と、高卒で現場監督だった父親は、徐々にホワイトカラーの下位の管理者に昇進し、毎日バスに乗り6時には帰宅する男だった。

「カトリック信者の家庭で育った。」とバノンは述べている。

彼の祖母は、南部パプテスト派の教会員として育ち、後にカトリックに改宗した。「南部バプテストからカトリックに改宗するとき、彼女は熱心なカトリック信者でした。ある時期、彼女は毎日、ミサに行き聖体拝領を受けていました。彼女は本当に家庭の中でカトリックの信仰を中心としていました。」と彼は振り返る。

バノンの父と母親もまた敬虔なカトリック教徒であり、彼は、少年時代、地方教区でミサの侍者*をしていた。彼には、また、家族中に修道士や神父として宗教生活に入った人もいた。

ミサの侍者*・・・ミサで司祭の手伝いをする人。第二バチカン公会議(1962年~1965年)以前は、男の子の役目だった。

「カトリック教会、特に南部の教会… 40年代まで、バージニア州と南部の他の地域は依然として宣教地域とみなされていたことを思い出してください。」

「それはKKKのような男たちについて一つの事です、」と彼は言った。「私の父親は、いつも私たちに、彼が子供の頃、KKKによるカトリックの司祭へのリンチ、タールド・アンド・フェザーリング**の方法についての話をよく話してくれました。30年代は、KKKは非常に流行していて、彼らは悪質な反カトリックでした。彼らは非常に人種差別主義者で反ユダヤ人であり、反カトリックでもありました。」

タールド・アンド・フェザーリング** ・・・実際に裸で固定されホットタールを塗り羽を付けること。侮辱すると言う意味もある。

「カトリックの信仰をもつことは一つの文化になります」バノンは言った。「文化的にカトリック信徒となることは宗教的な部分と同じくらい強力です。なぜなら、成長期に教会がこのようなコミュニティなのですから。特にアイルランド人のカトリック信徒にとって。」

「あのね、あなたがカトリック信徒として育つと、永遠にそうなります。」と彼は言った。

バノンは、カトリック信徒として育ったことが彼に「特に資本主義に関する見解」を与えたと語った。

「人が経済的に対処する手段において、私が保守的である多くのことに影響を与えています。私は、あなた方がプロテスタントの労働倫理とそれに類することはすべてを持っていると理解します。
私はそれをケイトー・オーストリアの経済学と呼んでいます。カトリック信徒として育てられることは、そのことが邪魔になります。」

「資本主義という啓蒙的な形があります。そして、このことは全体的になりふり構わない(資本主義)です。すべてのものが純現在価値に関連し、すべてが投資収益率に関連しています。それは、当然、カトリック信徒の考え方ではありませんし、カトリック信徒が考えるような方法ではありません。」

バノンはリッチモンド北部の典型的な50〜60年代の古き良きアメリカで育った若い頃を思い出した。多くのアイルランドのカトリック信徒と同様に、バノンは「ケネディ民主党」だったと彼は言う。「非常に民主党のブルーカラーの家族でした。」

この年月も、人間関係について彼の意見を作り出した。特に人種差別が終わりに近づいているとして、人種がミックスされた地域にとどまっている彼の両親の決断が影響している。

「私の両親が66年にした大きな決定のうちの1つだと思います。67年代後半には古い住宅地に古い家を買いました。」
「そして、何が起こったのかというと、その周辺のすべて人種差別が撤廃されはじめ、近所の多くの人々が郊外にすぐに逃げ出しました。私のお母さんとお父さんは、私たちはここにとどまり、逃げるつもりはないと決めました。そして、リッチモンドの北側は時間がたつにつれて、主に黒人労働者階級(が住む地域)になりました。私たちと素晴らしい地域になりました。」

「私のお母さん、彼女は黒人の友人がたくさんいて、コミュニティに非常に従事していました。彼女は攻撃的なリベラルではありませんでしたが、これらの人々が隣人であるということは当たり前のことでした。」
と彼は語った。

ケネディ民主党はかなり保守的だが、実際にバノン氏を「非常に保守的なものにした」のはベトナム戦争だった。

「私は、カトリック・コミュニティの中心だったカトリックの軍隊学校に行きました。そして、私はただ、どのくらい残忍で、ベトナム戦争がどのように教区を崩壊したかを覚えています。教区には、反戦運動家の人々と軍の家族から来た人々がいました。」

「私たちは、まったくのベトナム戦争支持者でしたが、そのことは変化しました。」と彼は語った。

「私が子供のころは、ニクソンはジャック・ケネディと戦っていたので、バノン家では、ニクソンという言葉は、呪いの言葉だったことを覚えています。そして、72年に私の両親が、実際には、マクガヴィアンに反対し、ニクソンに投票したことを私は覚えています。そして、ベトナム戦争がそうさせた様なものでした。」
(海外ニュース翻訳情報局  MK)

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